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酒折宮の歴史

歴史にあらわれた酒折宮伝説については、よく知られているように、次の古事記と日本書紀の記述に因っている。
『古事記中巻』
「即ちその国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時歌ひたまひしく、新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるとうたひたまひき。爾に其の御火焼の老人、御歌に続ぎて歌ひしく、かがなべて夜には九夜日には十日をとうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の国造を給ひき。(倉野1958) 『日本書紀巻七』景行天皇四十年 「常陸を歴て、甲斐国に至りて、酒折宮に居します。時に挙燭して進食す。是の夜、歌を以て侍者に問ひて曰はく、新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 諸の侍者、え答へ言さず。時に秉燭者有り。王の歌の末に続けて、歌して曰さく、日日並べて 夜には九夜 日には十日を 即ち秉燭人の聡を美めたまひて、敦く賞す。則ち是の宮に居しまして、靫部を以て大伴連の遠祖武日に賜ふ。(井上1967)

二つの史料は、日本武尊の軍勢が常陸から相模を経て甲斐の酒折宮に逗留した時の巡幸説話を述べている。酒折宮に在地首長とおもわれる火焚き人を賞めたという点で共通している。日本武尊は実在の人物ではなく、大和王権による異民族・辺境の征服、東国平定をヤマトタケルという英雄に仮託したもので、六世紀頃にあった帝記、旧辞により、八世紀の712、720年に成立した古事記・日本書紀に収録されたとする説が、津田左右吉、石母田正、直木孝次郎ら古代史学者の定説になっている。酒折宮で歌われた二つの歌については、厳密には五七七・五七七という片歌の唱和で、連歌のように五七五・七七を2人で歌うのとは異なる。酒折宮の日本武尊と火焚きの老人との歌のやりとりを連歌の起源となすようになったのは中世の連歌師により喧伝され、江戸時代の国学者によって評価が固まった(井上1967、甲府市史1989)。  『甲斐国志』〈神社部第二山梨郡万力筋〉の「酒折宮(坂折村)祀ル所ハ日本武尊ナリ社道二町許リ直ニ官道ニ向ヘリ旧跡ハ本社ヨリ四五町ノ上小物成山内ニ在リ社地方拾五歩石祠ヲ置ク土人古天神ト称ス何頃カ今ノ地ニ移セリ」

『甲斐国志』〈古蹟部第一山梨郡万力筋〉「酒折宮跡(坂折村)世ニ称スル所連歌ノ濫觴日本武尊ノ旧跡ナリ…酒折宮アリ祭ル所日本武尊ナリ旧社ハ山ノ中段ニ在リ古天神ト称ス玉諸神社ノ古址モ此ノ上方ニ在リ其ノ頃ハ山内ニ人住タリシ趣ニテ麓ヨリ続キテ石室ノ存シタル多シ」などは、江戸時代に酒折宮伝説が固定していたことを示している。つまり酒折宮連歌発祥地伝説は記紀で「連歌」と述べているわけではなく、菟玖波集などの室町時代の連歌師の評価であることを確認しておきたい。犬飼和雄氏の甲斐酒折王朝説は、酒折に「宮」=天皇の王宮があったとして、酒折御室山の磐座や古墳の古代遺跡の集中、甲斐物部氏の存在から、甲府盆地北東部の山麓に甲斐王朝の宮殿と都市があったと推定している(犬飼1993)。しかし酒折宮伝説は完全な史実ではなく、また甲府北西部の古墳群は6世紀後半から7世紀後半が築造時期で、景行天皇や彼の皇子、日本武尊が活躍したと伝えられる1~2世紀に甲斐王朝が成立したとは歴史的にありえない。甲斐国に大和王権の力が及び、進出拠点をおき、甲斐の首長層が大和王権と連合関係を結んだのは、東日本最大級の前方後円墳甲斐銚子塚古墳の被葬者、中道の大首長(中道王家)であり、甲斐の古墳時代前期・中期の政治的な中心は甲府盆地南東部にあった。甲府盆地北東部の政治権力が強くなるのは古墳時代後期からで、その主体となったのは大和王権から派遣された武人層や畿内にいた渡来人層である。もし酒折周辺に王宮や古代都市を実証するには、有力な古墳時代集落跡がなければならないが、発見されていない。犬飼説の根拠としている甲府北部の古墳群にしても、私は渡来系の色彩の強い牧人集団が被葬者と考えているので、酒折王朝説は考古学的に成立しない。なお、日本武尊は甲斐や東国の征服者であって、甲斐の在地のひとびとにとっては決して英雄ではなかったのである。また日本武尊は実在の人物ではなく大和王権の征服者の群像を一人の英雄に託したものである。酒折宮伝説は史実ではなく、古代英雄時代のロマンとしてつかむことが大事である。

なお、酒折宮について、八代町永井の天神宮が酒折宮だという説があった。日本武尊が若彦路を経由して来たので永井村が適地であること、永井天神宮には慶長6年の連歌料証文があり、江戸時代に将軍の朱印状があることなどから、酒折天神と呼ばれた永井天神宮こそが日本武尊が駐留した、連歌発祥の地であると主張された(斎藤1938)。しかしこの説は戦中に皇国神話史観のもとで郷土史家が主張したもので、酒折天神と呼ばれたことによるのみで、地元びいきの説で、吉田東伍も否定している。旧里垣村の酒折宮が記紀に伝わる酒折宮であることは不動である。

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