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酒折山の遺跡、石造物、歴史

酒折山の江戸時代後期の様子は、『甲州道中分間延絵図』の石和甲府間の絵図に描写されている。この絵図は東京国立博物館所蔵の『五海道其外公間見取延絵図』甲州道中九巻写本(1807年・文化4年)である。絵図篇石和甲府の巻には、茶色で表現された甲州道中の北に、横根村、坂折村、板垣村が表示され、緑色の山並みに東から板垣山、巴山、月見山の文字があり、浄正院、高札、酒折之宮本社御朱印地、古天神の社寺が赤で描かれている(図4)。解説篇の関係箇所を引用する(飯田1986)。
坂折村幕領。文化初年の村高563石5斗余、戸数45、人口157。ここで甲州道中から分岐して東北に進む青梅往還がある。武州秩父郡とを結ぶ秩父往還も起点を同じくし、小原西までは青梅往還に重なっていた。  月見山酒折宮の旧跡といわれる古天神の東に続く山である。西方の東光寺辺から眺めると凹字状の形を示して、満月の上る時は鏡台のようであることから鏡台山の名で呼ばれている。中秋観月の名所とされる。天正18年(1590)小田原の陣に従軍した細川幽斎が帰途甲斐に入った際、「甲府にて雪斎宗寿所望ありしに、雲霧に月の山こす風もがな」『東国陣道之記』)と詠んだのはここであるという。
以上の絵図と記述から、古天神が南方にある峰(標高485.2m)が月見山であり、その東部の峰(標高545~454m)が伴部山または巴山であることが確定できる。ただし絵図で表現されている板垣山は伴部山の南で、今は採石場で削られた山を示しており、『甲斐国志』にいう板垣山の烽火台があった山である。板垣御林山を小物成山の総称として、板垣山を坂折村山崎の山の名としても使っている点はまぎらわしい。
山崎の採石場は明治初期からは操業しており、山崎石材工業所の採石場には昭和9年銘の大山祇命碑・祠がある。「山崎石」として灯篭・墓石の石材を切り出し、また国鉄線路砕石としても使用され、現在も稼働中である。酒折山の遺跡としては、『甲府市史』(甲府市史編纂委員会1989)と『甲府市遺跡地図』(甲府市教育委員会1992)によれば次の遺跡6件である。
不老園塚古墳 酒折3丁目4 山腹 古墳時代 横穴式石室 長さ5.7幅1.4高さ0.8m
板垣山の烽火台 酒折町 山林 中世 烽火台
酒折縄文遺跡 酒折3丁目1 畑地 縄文時代 散布地
酒折遺跡 酒折3丁目10 浄正院周辺 近世 散布地
村内石山遺跡 横根町1143 畑地 近世 散布地
横根積石塚古墳群 横根町 山林 古墳時代 古墳
このうち、横根町の村内石山遺跡は山崎石材採石場の東側板垣山の山裾であり、近世の遺物散布地である。また八人山東腹の標高460mから330mにかけては横根積石塚古墳群横根支群の39、46、89、90、91、92、93、94、95、96、97、98、99、100、101、102、103、104号墳の18基の古墳が分布する。直径5~11mの安山岩礫で墳丘が築造された円墳で、内部主体の判明する古墳は横穴式石室であり、古墳時代後期の古墳である。山梨学院大学考古学研究会も参加した1985年に考古学調査が行われた横根支群39号墳は、6世紀後半で、石室内の副葬品に鉄鏃、刀子、ガラス玉、木曽馬系の馬の上顎歯が出土したことから(山梨県考古学協会1991)、武人の家長層の墓で、被葬者は牧や馬飼いに関わる渡来系集団である可能性が高いと私は考える。1983年春の山梨県考古学協会・古代の山梨を知る会の古墳群分布調査は、故中込茂樹氏・宮川昌蔵氏らとともに私も参加して、八人山東斜面の雑木林や果樹園に残る人工的な墳丘を探す綿密な調査を行ったので、八人山山頂や尾根筋には積石塚古墳はないと思われる。横根桜井積石塚古墳群は142基基の積石塚古墳が群集する点で、長野市大室古墳群に次ぐ日本第2の積石塚古墳群であり、歴史的に重要である。古墳群の一部は甲府市指定史跡になっていて、各古墳には古墳名標識が設けられてあるが、古墳の見学路やビジターセンターなどは未設定で今後の課題となっている。不老園塚古墳は、酒折3丁目4の奥村不老園の北部の月見山腹標高315mにあり、墳丘の土はほとんど失われているが、安山岩の板石で組まれた無袖式横穴式石室が鉄柵で囲まれ、酒折古墳の説明標識が設けられて保存されている。未調査であるが古墳時代後期6~7世紀の小規模円墳の横穴式石室と考えられる。
酒折縄文遺跡は戦前から知られている遺物散布地で、縄文土器と石斧が酒折宮周辺で採集されたというだけで、現在分布調査をしても何も確認できない。
月見山山頂から尾根筋に安山岩の大きな岩が集中しているところがあり、酒折山麓に居住する国文学者犬飼和雄氏は酒折御室山に3箇所の磐座があると記している。「酒折御室山の尾根をしばらく登っていくと、三輪山の磐座とそっくりな岩群が姿を現した。……まぎれもなく第二の磐座が林の中に現れた。……御室山頂上に目の前に岩群が姿を現し、平地が出現した。まさにそこが頂上の磐座で、三輪山と同じように平地となっていた。……酒折御室山の頂上に磐座が存在し、かつて信仰の対象になり、甲府盆地の三輪山だったのだと考えて少しもおかしくないと思われる。」(犬飼1993)。月見山(酒折御室山)には確かに3箇所の磐座があり、山頂の第3磐座(標高485m)、尾根中腹標高370mの第2磐座、不老園北の標高310mの第1磐座は、いずれも高さ1m以上径1mの安山岩自然石5~10個が立って集中しているもので、第1磐座が最も大きく、巨石裏には望月県知事による酒折宮連歌の銘文が彫刻されている。磐座は時代不明だが、古代の神奈備型山岳信仰と結びつくであろう。月見山山頂南斜面標高480~460m付近では、径十数m深さ1~3mの範囲に安山岩の岩盤が3箇所えぐられており、コッパ状の安山岩片がズリとなって集積している。露頭掘りの採石坑と判断される。小野石材店元会長の小野吉利氏や山本石材店にも聞き取りしたが、伝承はなく、近世~明治期の小規模な山崎石の石切り場遺跡と思われる。このほか、月見山から伴部山の尾根筋には、烽火台や古墳など人工的な遺跡の痕跡は踏査によって見受けられなかった。
月見山に所在する石造物については、甲府市史編纂委員会で調査がされている(甲府市史1993)ので補足する。
酒折宮石祠 酒折町月見山古天神  1767年(明治4年)
銘文 酒折宮 神主 源三實 施主 甲府有□ 篠原博古 明和四亥十一月
安山岩製石祠 法量高さ105×幅47×奥行63cm  主尊 日本武尊
藤森大神石祠 酒折町月見山古天神 1763年(宝暦13年)
銘文 藤森大神 願主 庸俊臺堅茂貫季通 宝暦十三年癸未九月十日
安山岩製石祠 法量95×41×60 主尊藤森大神(京都市の本社では日本武尊を祀る)
玉諸神社奥宮石祠 酒折町月見山中腹 年不明
銘文 奥村徳太郎 奥村正右ヱ門 地場致重 市川庄兵衛 小野延太郎 奥村 重 奥村品太郎 奥村正兵衛 奥村政兵衛 奥村吉兵衛
安山岩製石祠 法量94×75×大きな岩石をくりぬいて石祠をはめ込む
境界石自然石碑 酒折町月見山山頂 年不明
酒依村うち これより東坂折 西善光ち
自然石法量136×90×50 山林の入会に関わる境界石
忠魂碑 酒折町月見山中腹 1969年(明治44年)
磨きコンクリート製菱形石柱高さ8m×径1.5m 里垣地区旧軍人有志が日清・日露・大東亜戦争戦死者のため建立。
酒折宮鳥居 酒折3丁目 酒折宮境内南 年不明
額銘文 酒折宮
台輪型鳥居 高さ310
酒折宮石灯篭 酒折3丁目1 酒折宮境内 1651年(慶安4年)
銘文 奉納御寶前 慶安四辛卯年七月吉辰 宜成
石灯篭 法量 173×57×57 破片になる
酒折宮前 石神 酒折3丁目1酒折宮前山腹 1933年(昭和8年)
銘文 大天狗 金比羅大権現 小天狗
昭和八年十月之建 田中小春
柱状型石神 法量 100×23×23
稲荷石祠 酒折3丁目1酒折宮 1772年(明治9年)
銘文 施主 当村 文吉 明和九年三月吉日
法量 56×31×31 稲荷石祠
石祠  酒折3丁目1酒折宮 1776年(安永5年)
銘文 安永五年十一月吉日 神主 源□□□
石祠 法量 146×68×66
道標 酒折3丁目1酒折宮 1840年(天保11年)
銘文 右せんこうし通り 當 やまとたけの尊古路 左とおりぬけせんこうし
天保十一子年二月 當所 小野藤□
自然石 法量71×41×27
これらの石造物のほとんどが現地山崎石の輝石安山岩製で、出稼ぎの高遠石工や甲府の石工によってつくられた(十菱1995)。石造物からは、酒折宮の旧社地である月見山の古天神には「酒折宮」の石祠が江戸時代中期からはおかれ、信仰の対象になっていたこと、玉諸神社信仰も不老園の奥村氏や地場石材、小野石材の商工人によって祀られていたことがわかる。また、酒折宮の現社地も江戸時代中期から存在していたことがわかる。酒折宮の原信仰が御室山ともいわれる月見山の山岳自然物信仰に根ざすことを示している。

しかし山頂には安山岩大石に文字「埤」の意か?低い垣根の意か?)が彫刻の意か?が彫刻された文字があり、境界石とおもわれる安山岩自然石碑があるものの、これらは道標ではなく、酒折宮上の山道が官道で雁坂峠に通じていたとする酒折宮甲斐九筋起点説の証拠は見いだすことはできない。

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