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史跡特集

甲斐の国の三の宮 玉諸神社

玉諸神社の参道入り口には、”玉杉之舊跡”と書かれた石碑があります。日本武尊が水害防止を祈願して一つの玉を埋め、その上に杉を植え、後に玉室杉(たまむろすぎ)と呼ばれるようになったという言い伝えがあります。そして、この玉室杉の”玉室(たまむろ)”が玉諸(たまもろ)の地名になったと考えています。

甲州市にも玉諸神社が有り、そちらの玉は巨大な水晶の玉ですが、こちらの玉は、国玉=魂で、一国鎮護の国神「國魂神(國玉神)」を祀り、甲斐国三宮に列せられています。江戸時代初期につくられた本殿には珍しく背後に2本の柱が立っており、この柱は、大きな屋根を支えているという説と、神社の神体山をお参りするための遥拝門だという説など諸説あります。

また、この「國魂神(國玉神)」が、所在地の国玉(くだま)の町名の由来といわれています。玉諸神社は、敷地内をぐるっと大きな桜の木が囲むように咲いていて、朱い鳥居と桜のコントラストが生みだす神秘的な光景が魅力です。

春の玉諸神社
春の玉諸神社
お花見にもいいですね
お花見にもいいですね
鳥居と桜
鳥居と桜
赤と桃色のコラボレーション
赤と桃色のコラボレーション
みごとな桜並木
みごとな桜並木
とても幻想的です
とても幻想的です

三宮(さんのみや)の由来

863年ころより、中央から任命される国司制度により赴任した国司の巡回する順に一宮、二宮、の称号があたえられ、玉諸神社は3番目ゆえ、甲斐三宮と称された。

その後、武田家も代々祈願所として崇敬を深めた。そして武田家滅亡と共に兵火にかかり社殿すべて消失したが、徳川家より大事にあつかわれ、1609年徳川家康の命令で社殿が作られた。そして何回かの修繕をへて、2004年3月、玉諸地域全体の神様として新しい拝殿が出来上がった。

甲斐の国 一の宮 浅間神社(あさまじんじゃ)
甲斐の国 二の宮 美和神社(みわじんじゃ)
甲斐の国 三の宮 玉諸神社(たまもろじんじゃ)

治水の祭り おみゆきさん

甲府盆地の西部を流れる釜無川と御勅使川(みだいがわ)が氾濫し周辺地域に大被害をもたらした際、治水や水防を祈願する新しい祭りを挙行するよう勅使が命じた。その内容は、甲府盆地に点在する三社の一之宮、二之宮、三之宮がそれぞれ両川の合流点である氾濫地点に神輿を巡幸し祈願儀式を行うことであった。

毎年4月15日を三社神幸祭夏御幸と言った。淳和天皇の時代天長2年(西暦825年)甲斐の国白根獄の地で釜無川が決壊し龍王堤を破って甲府盆地が再び湖水となった。その有様はまるで大龍のようであった。白根獄山神の荒れ狂う様子は凄まじく、大災害を起こし大勢の住民が溺死した。濁流は玉諸神社の西側、大橋の森林に到達してそこから大きく南に曲がって蓬沢、西高橋へと向かった。その洪水の通過したところは今の青沼、沼町、深町、埋窪、砂田などの地名が残っている。

大橋の西側に巡木(めぐりき)と言う榎の大木があり昔の地名で里垣村坂垣にその跡地がある。口伝えによると、白根の山神大龍は国中に災害を起こし、国の御玉を奪って国玉の森に来た。そこには国魂の大明神の御神威に恐れ、榎の大木を巡り帰ったと言う。その大橋の森の傍らに深き淵があり「龍の淵」と言う。その淵の深さや広さはすばらしく絶景で、名称地となった。磯部家45代当主「龍淵斎」はこの名をとったと思う。
この洪水の押し出したところを後世になって龍王村と言った。
素敵な舞
素敵な舞
とても華やかな衣装です
とても華やかな衣装です
大勢の人が集まりました
大勢の人が集まりました
散り始めたさくら
散り始めたさくら
とてもにぎわっています
とてもにぎわっています
ついいろいろ欲しくなってしまいます
ついいろいろ欲しくなってしまいます
いつもとはちょっと違う神社
いつもとはちょっと違う神社
青空にはためく旗がとってもさわやか
青空にはためく旗がとってもさわやか

2012年のおみゆきさん

2012年の今年は15日が日曜だったこともあり、例年以上の盛り上がりをみせる祭りとなった「おみゆきさん」。

お祭り当日は多くの人が神社を訪れていました。年々、県内外からの訪問者が増えているそうです。
お神楽では巫女の衣装に身を包んだ子供たちが優雅に舞を舞ったり、境内では昔懐かしい紙芝居をしていました。出発したお神輿が神社に戻ってきたあと、魂をお神輿から神社に還す神聖な儀式が執り行われました。

長寿祈祷でお神輿の下をくぐっている方や、赤ちゃんがお神輿の下をくぐると「子供が強く健康に育つ」という言い伝えから、赤ちゃんや子供たちもお父さん、お母さんと一緒にくぐっていました。
お神輿が怖いのか、泣いている赤ちゃんもいましたが微笑ましい光景に周囲も和やかな雰囲気になりました。
古くから現在まで続く伝統的なこのお祭り。これからも大切にして受け継いでいきたいですね。

天気が良くお祭り日和です
天気が良くお祭り日和です
大勢の人で混み合っているよう
大勢の人で混み合っているよう
子どもたちの舞
子どもたちの舞
一生懸命踊ってくれました
一生懸命踊ってくれました
神秘的な舞
神秘的な舞
河童でしょうか
河童でしょうか
昔懐かしの紙芝居
昔懐かしの紙芝居
河童の舞
河童の舞
御神輿が帰ってきました
御神輿が帰ってきました
とても豪華なおみこし
とても豪華なおみこし
玉諸神社に到着
玉諸神社に到着
魂を御神輿から神社に戻します
魂を御神輿から神社に戻します

『ぼんぼこさん』とは

東日本大震災をうけ、2011年のおみゆきさんではお神輿にかわり『ぼんぼこさん』となりました。 『ぼんぼこさん』とはいったい・・?

『ぼんぼこさん』とは以前から神社の中に保管され、存在はしてきていました。しかしはっきりとしたことはわかってはいません。馬で渡御していたとされていましたので、馬がご神体で『ぼんぼこさん』はそのお飾りではではないかと考えられていました。

しかし今回詳しく調べたところ、『ぼんぼこさん』のなかにご神体があり、お神輿と同じ意味合いのものではないかと確認されました。「高山祭り」や「京都の山鉾巡業」などでそれらしいものは見かけますがこのような形の物にご神体が収めてあるものは日本中どこにもないと思います。

『ぼんぼこさん』が出されたという記録は70~80年前にもありますが、玉諸地区のどのようなコースをたどったかということなどはまったくわかりません。竜王までいったのは、明治初期130年余り前だったと記録されています。

『ぼんぼこさん』の由来は記録になく、文字も漢字なのかひらがななのかそれともカタカナなのかそれすら不明です。おそらく日本国内でも玉諸神社だけに伝わっているもののようです。
発見された『ぼんぼこさん』のご神体は相当古く推定300~400年前のものです。現在の技術で詳しく調べれば使われている紙が何年前のものか判明するでしょう。そうすれば歴史上貴重な資料になると推察されています。

玉諸神社では今後も『ぼんぼこさん』をだしていく方向で三社御幸の方は『ぼんぼこさん』、玉諸は神輿というように二手に分かれていこうということになるそうです。 3月の東日本大震災をうけお祭り自体の開催も反対意見もあり賛否両論だったそうですが、御幸祭りそのものが1000年以上前の大災害からの復興のお祭りということで先人に習い『ぼんぼこさん』で渡御しましょうということになりました。

貞観年間(西暦858年~885年)には隕石の落下、富士山の噴火、2011年3月の東日本大震災クラスの地震などの多くの災害が何年間にわたり立て続けにおこりました。そのつど先人は『ぼんぼこさん』と共に復興を果たしてきました。 東日本大震災においても東北の方々も災害に負けずに力強い復興を遂げて欲しいと願っています。
玉諸神社
〒400-0815 甲府市国玉町1331

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